本山修験宗白峰山 永福院

千人参り

千人参り

開創(はじまり)

四国八十八箇所、弘法大師の霊場を巡拝する四国遍路は全国的にも有名です。紀伊から美濃にかけて三十三箇所の観音霊場を巡る西国巡礼も、それに劣らず信仰を集めています。
全国各地に、これにならった霊場がありますが、福岡県では篠栗の南蔵院を中心とした新四国八十八箇所巡礼がよく知られています。

福岡県糟屋郡北部の千人参りは、明治十三年(1880年)古賀市小山田長勝寺堀田徳端上人の発起により、糟屋北部旧七か村に石仏を安置し、四国八十八箇所の霊場を勧請(かんじょう…神仏の分霊を請じ迎えてまつる)したのが始まりといわれています。
又、同時期に、上府大分寺境内に観音像三十三体をはじめ十三佛像・六地蔵尊の石仏が,津屋崎渡村の彫刻師広田久平師によって造立され、開眼供養が行われています。

爾来、宗派を超えて観音信仰、大師信仰は厚く、西国巡礼、本四国遍路のコースにならった写し(移し)巡礼として、仏道を極め、風雨順潤、五穀豊穣を願うことから始まったものです。
千人参りの霊場は、曹洞宗、臨済宗、浄土宗、西山浄土宗、天台宗の各寺院境内にも札所があり、寺院の持ち回り世話で巡拝が行われました。長勝寺境内の石碑には、天下泰平、県下安全,風雲順調、五穀成就という開創の主旨と当時の世話人の名前がきざまれています。

中興

開創以来二十数年の年月を経て、お世話人の後継者が少なくなり、札所霊場の損壊や消滅、草深くなった札所が目立ちはじめ、系統だったお参りが困難な状況になっていました。

西国三十三所観音霊場と四国霊場双方の札所確立と、組織的系統立った団体巡拝を念願していた永福院住職 五十二世智海和尚は、先ず、西国三十三所観音霊場巡拝を一人で敢行しています。明治三十六年、海路門司から船を乗り継ぎ、紀伊勝浦に渡り、青岸渡寺を最初に西国三十三所観音霊場巡拝を50日かけて満行、納経帳と矢立ての硯で記した西国旅日記に苦行の模様を克明に記録しています。そして、大正三年(1914年)、この伝統の新四国霊場復興と共に西国三十三所観音霊場の勧請を発願、信徒諸氏と図って千人団と称して団参を組織し、各霊場の復旧改修と観音霊場設置・石仏奉安に努めました。

「団体参り」「千人参り」の名称は、中興以来、春秋二度の団体参拝を千人団と称したところから来ています。更に、巡拝者、接待する人、札所、お世話人皆さん全てが慳貪(ケンドン)の心を離れた三輪清浄(空寂)の布施行に徹していること、そして、このつつしみ深く、ゆかしい風習を支えている人々が、千人もの多きに亘り、地域全体に支えられた団体参りであることを称して“千人参り“と言うようになりました。
そして、明治、大正、昭和、平成と永福院智海和尚(宝満山南ノ坊五十二世)中興以来、信明、信光と代々団長を務め、世話人組織皆さんの御奉仕によって、徒歩に徹した団体参りのしくみが確立しました。毎年世話人総会で巡拝日程が組まれ、136年途絶えることなく今日に受継がれてきました。

現在の巡拝(おまいり)

例年、春季四月十日から四日間、秋季十月十日から四日間、新宮町、古賀市を中心に、福岡市東区香椎和白地区と福津市の一部(旧粕屋北部七カ村)に点在する身近な観音霊場、四国霊場として毎回決められたスケジュール通り、歩くことに徹した団体巡拝をしております。

日常、家にあっては雑事に追われ、素直で清浄な心に立ち返ることはなかなか困難な中、千人参りには、様々な場面で仏教の教えの根幹であります菩薩行(菩薩の六波羅蜜行)の身近な実践があります。永年、人びとの親睦の場として、心身堅固の道場として、また歩くことによる心の癒しの場として親しまれてきました。

札所での団長挨拶

読売新聞の「福岡 ニュースと話題」欄で紹介された記事を、同社のご了解の下に、掲載します。
クリック頂ければ、拡大したものをご覧になれます。

札所での団長挨拶

冊子「千人参り」

開創120年記念行事の一環として、小冊子「千人参り」を作成しました。世話人総会で印刷費を関係者のご志納金で賄うことで配布することにしました。明治維新以降の地域の沿革、点在する観音霊場、新四国霊場などを記述しています。

巡拝日程は行事欄をご覧下さい

千人参りと修験道(しゅげんどう)

修験道の開祖は役ノ行者

修験道は、約千三百年前、役の行者によって開かれた山伏道で、日本古来からの山岳信仰に仏教思想、神道をとりいれた神仏一体観の信仰です。
山岳崇拝の精神を基とし、大自然のふところに分け入り、困苦を忍び、心身を修練し仏果・仏徳を体得し、我が身そのまま、仏の世界、悟りの境地に到達することが出来ると説く、いわゆる『即身成仏』を観ずる信仰で、心身を極限まで追い詰めることで験力(げんりき)を得て衆生を救う仏の子に生まれ変わる『擬死再生』をめざす厳しい登拝修行、籠山修行を行います。

歴史上の高僧先徳がたは全て登拝、籠山修行にいそしまれました。弘法大師も、留学僧として唐へ渡る前、役ノ行者の古跡をたずね、修験道の霊域である大峰山、葛城山で修行され、修験道との因縁はまことに深いものがあります。唐より帰国後は、山岳修行の体験から、大峰山、葛城山にかこまれた長峰山系に真言宗の根本道場・高野山金剛峯寺を建立され、のちにここで入定留身(にゅうじょうるしん)されました。

千人参りは菩薩行の実践

修験者(山伏)の修行では、以下に記します十界の修行、なかでも菩薩行がもっとも重要なものとされております。千人参りは、修験道本来の入峰、登拝の籠山修行の厳しい行法、修法の形はとりませんが、根底にある思想、教義は全く変わりません。めざすところは、清浄な心に立ちかえって仏道実践に励めば等しく菩薩たりうること、そして現世に浄仏国土(註釈あり)を築くことでございます。

4日間の巡拝は、団体参りの隊列を崩さず〝車の洪水〟の中,交通ルールを遵守して歩き、田んぼのあぜ道では雨土の恵みを思い百穀豊穣を喜びます。山中峠ごしの風の音、谷川の水音に大自然の声を観想します。汗して登った、海の見える札所の眺望に歓喜法悦の思いをします。
そして、草刈り奉仕で整えられた巡拝道に長い道のりの困苦を癒され、滑りやすい山坂道では、滑り止め段作りの鍬あとに感謝しながら歩きます。到着した札所のお接待をいただく時、施者、巡拝者とも、お互いの布施波羅蜜行に接することができます。

そんな千人参り巡拝行には特別な修法、作法はありませんが、知らず知らずのうちに人本来の清浄な心持ちに立返ることの出来る、菩薩行(六波羅蜜行)の実践があります。役ノ行者、弘法大師の徳に少しでも近づこうとする小さな旅とも、小さな修行道場ともいえるでしょう。

先ず、理屈抜きに歩いて、何のみかえりも求めず、投げやりにならず、強制でなく、疑いをもたず、感謝の心で歩行を繰り返す中に、自分の浄化、人格識見向上の実修実証・実修得験(註釈あり)の世界が開けます。博多流に砕けて言えば〝顎より実行〟が肝要、〝うどん屋の釜〟(ゆうばっかり)では菩薩行になりません。

<浄仏国土>
土三部経の一つ、漢訳無量寿経にある「清浄国土」を2字につづめた言葉で、浄土(浄刹、仏界)といいます。
娑婆世界、凡夫の現実世界を穢土(えど)というのに対し、仏の住む清浄な国土を浄土といいます。仏教思想史上、浄土は来世浄土(往く浄土)、浄仏国土(成る浄土)、寂光浄土又は常寂光土(在る浄土)の三つに分けられます。現実の世の中で仏道実践に励む菩薩行(六波羅蜜行)として立てられた浄土が浄仏国土です。般若経典で強調された、現実世界の浄土化を意味します。個人的には慈悲利他(慈善博愛の行為)の実践であり、社会的には浄仏国土の実践であります。
<実修実証・実修得験>
経典の詮議、論議より、野外での苦修体験で験徳を顕わすことを基本とし、これを優先する修験道の特色を表す言い方です。例えば、聖護院門跡.・加来ご門主は次のように語っておられます。「先ず山に入る。そこで歩き、肉体的に苦しむ。のどの渇き、とことん空腹を感じてはじめて、飢えの苦しみや自分の弱さを知ることができる。その先で飲む水のおいしさに体が反応します。ただ霊地の大峰山に登ってきた、とそこで終らせるのでなく体験して得たものを里へ帰って生かす。そしてまた山へ行く。その体験、実行を繰り返すことで、自分を浄化していく。それが修験の特徴です。」

十界の修行

仏教徒として先ず心得るべき基本的な戒律として、三帰、五戒、十善戒(注釈あり)があります。その上で一切衆生悉有仏性(註釈あり)の立場で、仏性と煩悩、性善と性悪を考える時、修験道では迷いから悟りへ至る心の世界に、迷える世界悪玉六つ、悟りの世界善玉四つの十の境界があるという十界思想を取入れています。それは、それぞれの一界は他の九界を具しておるという十界互具の思想で、仏も衆生も十界を互具しているという十界一如の真如観であります。諸々の境界で苦しみ修行し、真如を悟るのが、成仏であるとされ、そこに至る修行法として十界修行を成立させています。それを厳しい山岳登拝、入峰の中で行ずるのですが、その修験道の修行精神を、千人参りに当てはめて述べてみます。

千人参りでは道中の様々ま場面においてこれらの世界を見出すことができます。一々の境界をしっかりとみつめて、計らいごとを捨て艱難辛苦になりきり、御仏を念じながら一心に歩みを進めます。  さきほどから述べているように、千人参りは十界修行であり、菩薩行としての六波羅蜜の実践です。これは修験道の修行そのものでありますし、大乗仏教における修行の根幹にほかなりません。

<三帰>
さんき:仏法僧(仏・仏の教え・仏の教えを信奉する集団)に帰依することで、出家、在家を問わず仏教徒の受持しなければならない誓いで、三帰依とも三帰戒とも言います。
<五戒>
ごかい:不殺生戒(ふせっしょうかい)、不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、不邪淫戒(ふじゃいんかい)、不妄語戒(ふもうごかい)、不飲酒戒(ふおんじゅかい)
<十善戒>

①不殺生戒(ふせっしょうかい)体で行う身業を戒めます

②不偸盗戒(ふちゅうとうかい)

③不邪淫戒(ふじゃいんかい)

④不妄語戒(ふもうごかい)口で言う口業

⑤不綺語戒(ふきごかい)口による過ちが一番犯しやすいことを戒めます

⑥不悪口戒(ふあっこうかい)

⑦不両舌戒(ふりょうぜつかい)

⑧不貪欲戒(ふとんよくかい)心に思う意業を戒めます

⑨不瞋恚戒(ふしんにかい)

⑩不邪見戒(ふじゃけんかい)

以上、身・口・意の三業を清浄にすることを心掛けなければなりません。
<一切衆生悉有仏性>
いっさいしゅじょうしつうぶっしょう:生きとし生きるものは、全て生まれながらにして仏となる本性があるという教説。又、心を有しない草木、土にも仏性があり、自分と自分をとりまく環境全てが仏の姿であるとする(草木国土悉皆成仏)の教説もあります。
1.地獄界―忍苦行 よいことは自分のせい、わるいことは全て人のせいにして、常に他人を責め憎む世界で、愛も規律もない生命の保障もない世界です。身の毛もよだつような冷血な心、燃えただれるような残忍な心は八寒八熱の苦界です。巡拝道中、炎熱、風雨、冷寒をよく耐えしのぎ歩くことは、地獄道克服の修行につながります。
2.餓鬼界―知足行 どんなに美食、美衣、豪邸に住してもまだ不満な世界、貪欲あくことなく食べたい飲みたいの一念は果てしない飢渇の苦、餓鬼の心です。道中、空腹を感じ水に渇しながら不平不満を訴えず、また粗食に満足し、足るを知ることは 餓鬼道の克服です。
3.畜生界―労作行 人道をはずれ、不義乱倫の心は、弱肉強食、生命を何とも思わない掟のない畜生の世界に同じです。畜生は重い荷物を背負い苦役に使われます。山坂重い荷物を背負っての登り下りの労苦をいとわない巡拝によって、忍苦のうちに法悦を味わい畜生道を克服します。
4.修羅界―精進行 憎しみ、ねたみ、人を押しのけるという常に激しい闘争の存在する心は人に似て人にあらずの阿修羅の世界です。この闘争心を精進努力する進取の精神に転じ、巡拝道中では隊列に遅れまい、一日の行程はなんとか歩ききろうと、負けじ魂で発奮します。ここに修羅道克服の実修があります。
5.人間界―抖そう行 悪をはなれ善に向う、人本来の清浄な心にたちかえる苦楽が半ばする境界です。巡拝札所、霊場を歩くうちに、心の俗塵を払い去って、ようやく自己を省みて、懺悔と感恩の人道を味わいます。六根清浄を願って高峰を目指すのが人間の本来の姿ですが、登山の標示に例えれば今、五合目付近です。
6.天道界―歓喜行 天は歓喜法悦の世界です。長い巡拝行程を歩き終えた時、達成感に歓喜し、又、ひたいに汗し峠にたどりついたとき、眺望をほしいままにし、頂点、天上界の法悦に浸り、寿命延年の思いを味わいます。但し、この〝有頂天〟は地獄にも畜生にも墜ちる道に通じます。
以上を六道と言いますが、人間の心の世界の迷いの段階でいまだ仏道修行の境地には入っていない段階です。
7.声聞界―聞法行 教えを聴聞し、仏道を理解する修行の境地に入っています。巡拝道中、先達に仏の種々の教え、行事のいわれを聞いて、仏道を理解することは声聞行にあたります。ただ仏道の境地ではありますが、世間の煩わしさを遠ざけた中で、自己の悟りのみに専念しようとするところに留まった段階で、いわば小乗の教えを聞き悟った境界といえます。
8.縁覚界―沈思行 座行で瞑想したり、自然を観察することで自然の道理を身につける世界です。雲の流れ、山の風、木々の緑、沢の水音…巡拝道中の自然に触れ、これを縁として、無明煩悩を振り落とします。 この境界も仏道に入って大自然に耳を傾けますが、世間と共に在って人々を顧みるところまでは至っておらず一人平安を楽しむ境界です。
9.菩薩界―奉仕行 菩薩行は、次項でふれる六度の実践・菩薩の六波羅密行のことです。一切の道徳、皆菩薩行ですが、巡拝途中、同行相助け、上には高い理想を仰ぎ、下には新客を導き、利他化益の奉仕に努め、他の人とともに悟りを得ようとして諸々の修行をする境界です。この境界は、六つの徳目を修練することに勤め、自らは仏の境地を願い求め、利他の行として衆生を教化、救済しようとする、いわゆる上求菩提.下化衆生(じょうぐぼだい.げけしゅじょう)の理想的な真の仏道といえます。
10.仏界―感謝祈願行 大自然の中に融けこむ宇宙絶対の真理、仏陀の世界です。この世のものに、全く執着のない世界です。至心に祈り、巡拝を続けるうちに、札所、霊場に融け込み、自らのうちに感謝の思いと、仏心が湧きあがってきます。そして、世界平和、浄仏国土を祈願します。

六度の実践(六波羅蜜行)

大乗仏教は「上求菩提 下化衆生」の精神をもってその旨とします。この文言を意訳すれば「うえに向っては悟りを開いて仏陀になることを目指し、下に向っては生きとし生けるものをもれなく導き教化する」となります。その眼目は、自分自身が悟りを開くことを最大の目的とする独善的な立場ではなく、悟りをめざしながらも一切の衆生を同時に済度しようと志向し実践するところにあります。そしてこの誓願を持つ者こそが「菩薩」といわれる修行者です。では菩薩が行う修行とはなにかというと「六波羅蜜」がそれにあたります。ちなみに六度とは菩薩の六波羅蜜行のことで、度は渡に同じで、「此の岸」から「彼の岸」仏の世界に渡る到彼岸の意味です。波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に渡るということで、六波羅蜜とは悟りを完成する為の六つの修行方法という意味です。

千人参りにおいても「上求菩提 下化衆生」の精神を具体化したこの六波羅蜜を真摯に実践することが肝要です。

1.布施(ふせーほどこし) 道中の霊場で、先達がその歴史や由来を語り法談を行うのが法施。
空腹の巡拝者に弁当をわけ、渇した者に水筒の水を飲ませるのが財施(物施)。
重い荷物に苦しむ者の荷を分け持ち、疲れて歩む者に手を貸すのが無畏施。
このような慳貪を捨て去った慈善博愛の行為が布施行です。
2.持戒(じかいーつつしみ) 道中、先達の指示を守り、礼儀作法を重んじ、規律正しく巡拝することで、持戒の行を実修します。十善戒、身口意の三業動作を慎むことにつながります。
3.忍辱(にんにくーがまん) のどの渇き、空腹、疲労などの苦しさに耐え、助け合い譲り合いながら巡拝し、忍辱の行をおこないます。堪え忍ぶ心がなければ娑婆世界に安住できません。
4.精進(しょうじんーはげみ) 粗衣粗食に満足し、清浄な気持ちで巡拝に専念する、ここに精進行があります。六波羅蜜行の六は並列の六ではなく、その内のどれ一つを取り上げても、他の一つの根底となっています。その意味から精進をみる時、他の五波羅蜜行は全て精進となります。肉食を断つことを精進といいますが、これは粗衣粗食をいとわず努力することから起こったことです。
5.禅定(ぜんじょうーしずけさ) 心をひとところに定め、散乱させないことですが、一心に仏を念じながらの巡拝は、そのまま禅定の行の実修です。瞑想して心身を統一する禅について、栄西禅師は「禅は仏法の総府なり」、道元禅師は「禅とは仏の心の宗である」といっておられ、禅定ぬきには仏の正しい知恵は掴むことはできないわけです。又、天台では止観として、真言では観法として、禅定を重んじています。
6.智恵(ちえーかしこさ) 六度の最後は悟りの彼岸に到達する知恵、般若波羅蜜です。この智恵とは、因縁の道理を知り、仏の心を知る、正見の智恵般若を指しています。般若波羅蜜行は先きの五波羅蜜を全部包含しており、全部をもう一度繰り返して、正見の知恵の持ち方を身につけることであります。
私欲や邪見をはなれた巡拝道中は、おのずから人本来の清浄な心に立ち帰っています。
千人参りは、正見の智恵を磨くのに絶好の機会です。 

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