本山修験宗白峰山 永福院

永福院のご紹介

永福院のご紹介

沿革

伝教大師が入唐を前に、宝満山に登拝され、入唐求法の平安と航海安全を祈って薬師佛を刻まれ、帰朝後 天台宗六所宝塔の一つ筑前宝塔院(西の宝塔院)を宝満山に建立された史実があります。

当山は開基以来、ながらく無住の庵でしたが、1745年(延享二年)、宝満山二十五坊のひとつ南の坊四十三世賢祐法印大和尚が入庵、堂宇を再建。
その後しばらく無住の時期をはさみ、1871年(明治四年)、修験道廃止令により宝満山を下りた五十一世賢俊が信者をたよって入庵。 爾来、当地で宝満山修験道山伏の寺として今日に至っています。

明治政府の神仏分離令による山から仏教色を一掃しようとする指令は、勢いのおもむくまま廃仏毀釈にまで進み、全国各地の修験信仰の山を揺さぶりました。
宝満山も例外ではなく、仏像は壊され、坊舎堂宇は焼かれ、山伏は神官になるか還俗するかを迫られる中、山の民族信仰、宗教文化は散逸しました。

宝満山南ノ坊五十一世賢俊は、奉佛派の中心となって理不尽な修験廃止に激しく抵抗したようですが、衆寡敵せず法脈を伝える古文書を密かに携え下山。
そして、当時無住であった賢祐法印大和尚 が留錫した南の坊ゆかりの庵に信者をたよって入庵。
ここ筑前新宮を拠点に宝満山南ノ坊再興に取り組んだ大講師賢俊大和尚の困苦に耐えた厳しい歴史があります。

入庵と南ノ坊再興に際しては、曹洞宗 興雲寺十三世 宜戒上人の南ノ坊入庵への寛大なる思慮計らいがあり、更に古来よりの信者 新宮湊の萬屋本家、新宮金内屋はじめ、新宮村民による南ノ坊法灯護持への篤い願意があって、そのお蔭で、神仏習合の遠い時代の名残をとどめる、天台修験の数少ない山伏の寺として、今日まで存続しています。

本山聖護院と永福院

宝満山に在った南ノ坊(永福院)は、寛文5年(1665年)本山聖護院(第39世天台座主増譽上人造立)を仰ぎ、本末関係にありました。仏教伝来の往古より、他宗教を排斥しない我が国固有の精神文化の伝統の中で、神仏が渾然と融け合っていました。しかし、この神仏混淆の修験道信仰は明治維新の嵐の中で激しく揺れました。

王制復古思想が明治維新の発端でしたから、政府は神道の国教化を強制しました。

1868年(明治元年)神仏分離令が発布され、廃仏毀釈(*末尾に注釈)の運動が高まりました。当時の人びとは、平城・平安の昔から、古人が本地垂迹説(*)をあみ出してまで神仏の融合をはかってきた智恵を忘れたのでしょうね。

なかでも、修験道は、山岳崇拝、神仏一体観の信仰でしたから、明治政府の方針に合わなかったのでしょう。1872年(明治五年)には太政官布告で廃止のうきめにあいます。

やがて廃仏毀釈は行過ぎであったとして、佛教寺院の多くは元に戻りましたが、山岳信仰の修験道寺院は廃止になったままでした。
困苦の中辛うじて生き残った全国の山伏は天台宗、真言宗のいずれかに所属するよう促され、南ノ坊は聖護院に従い、天台系修験の拠点天台宗寺門派(当時)三井寺に所属しました。此の事は、伝教大師が宝満山に入山(803年延暦二十二年)されて以来、智証大師・円珍(第五世天台座主.三井寺再興)の宝満山入山や、聖護院の増誉上人が天台座主(第39世)を歴任されるなど天台宗との歴史的繋がりが深かったことによります。

その後、1950年(昭和二十五年)聖護院が本山派修験道の総本山を顕示し、本山修験宗聖護院門跡として独立した際、当永福院も行動を共にし、古来よりの本末関係を明確にし、聖護院の末寺として現在に至っています。

聖護院の開祖は、四天王寺、広隆寺の別当、三井寺(現天台寺門宗本山)の長吏をへて第39世天台座主になった増誉大僧正です。1090年(寛治四年)、白河上皇の熊野本宮ご参詣の際、増誉大僧正がその先達を務めました。上皇はその功により大僧正に一寺を賜り、聖体護持から二字を取り聖護院と勅称されました。

聖護院は後白河天皇の皇子静恵法親王が宮門跡として入寺されて以来明治維新まで、門主を皇室か摂家が勤める、皇室と関係の深い門跡寺院です。

そのような歴史から、菊の御紋と法螺貝(修験道の象徴)が聖護院の寺紋“菊法螺”(キクボラ)となっており、当永福院においても使用の認可を賜っております。

写真は永福院本堂内陣のもので、紺地五色散雲生地の水引、柱巻きに錦糸で織られた菊法螺紋です。

宝満山峰入りの紹介
千人参りと修験道
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